

浄厳院 歴史と文化財

〈平安〉定朝様式の丈六仏。雲文法相華文を配した天蓋、飛天光背、蓮台を備える 織田信長が犬上郡甲良町下之郷がら移したもの。

〈平安〉もと八幡山大平にあった聖徳太子開基(平安)天台宗興隆寺弥勒堂を、織田信長が移築、改修を重ね、密教形式から浄土宗系の本堂に改造された。

〈室町〉佐々木六角氏開基の真言律宗慈恩寺時代の遺構、16世紀中頃に創建されたと考えられる。三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺。

(明治)束帯の威儀を正した織田信長の木造坐像。像の台座の墨書により、明治十四年の三〇〇回忌に菩提を弔うため制作されたことが判明した。

〈室町〉清凉寺式釈迦如来、佐々木六角時代真言律宗慈恩寺の本尊とされている。

(琵琶湖文化館寄託)〈鎌倉〉像高7,6cmの精緻な銀造仏。銀製透掘の光背、銀製蓮華座を具える。蒔絵厨子は江戸。

(琵琶湖文化館寄託)〈室町〉厨子内には火炎が立ち上る様に装飾された宝珠型の舎利塔が収められ、背面には長谷寺式十一面観音像が沈金で描かれたもの。

(琵琶湖文化館寄託)〈鎌倉〉仏(本地仏)が神(垂迹神)の姿を借りて描かれる仏画。比叡山の地主神の山王諸神を社殿内に配置し描かれた。

(大阪市立美術館寄託)〈平安〉画面左上から右下に向かって来迎する斜め向きの構図とした最古の来迎図。

(安土城考古博物館寄託)〈安土桃山〉信長から「こんせ(金勝山)の坊主」僧侶へ、安土へ移住させるよう、移住しない場合は「欠所」、つまり寺領を召し上げるとの朱印状。

(安土城考古博物館寄託)〈安土桃山〉天正七年安土宗論の記録。宗論の内容と法華宗は今後法難を仕掛けない旨の起請文、上記を家臣に知らせた信長の朱印状を写したもの。

(安土城考古博物館寄託)〈江戸〉狩野派作。束帯姿の信長像。右手で笏(しゃく)の上端を押さえる図様は珍しい。

〈南北朝〉浄厳院前身寺院の慈恩寺開基六角氏頼の供養塔と伝わる。塔身の四面に仏像や梵字が刻まれ、屋根には九輪と四隅に隅飾りが立つ。

(栗東歴史民俗博物館寄託)〈南北朝〉周辺部には観経(『観無量寿経』)の内容を図化した絵がコマ送りのように描かれ、中央の阿弥陀三尊の極楽世界 へ導かれるというもの。

(大阪市立美術館寄託)〈南北朝〉金色の肉身を朱の細い線でくくり、螺髪は群青、髪際線は緑青で描いています。また衲衣や舟形の光背には金で裏箔が施されている。

(安土城考古博物館寄託)〈江戸〉開山隆尭上人が夢の中で観音に勧められ『三部仮名抄』を読み浄土教に帰依した故事を描くもの。

(安土城考古博物館寄託)〈室町〉浄厳院開山の隆尭上人像。栗太郡金勝山(現栗東市)に阿弥陀寺浄厳坊を築き、近江浄土宗の発展に貢献した。

(安土城考古博物館寄託)〈室町〉浄厳院八世応誉明感上人は、鷹狩でその地を訪れた織田信長にその高徳を評価され、半ば強引に安土移住を命じられた。
